既婚バイのHIV記録

HIVに感染した既婚バイの思いのまま記録するブログです。
エイズ発症はなくほぼ普通に生きています。
これからの人生とこれまでの人生、今の自分、家族、仕事など、思いのままつぶやいていきます。

クスリマス

記憶がある限りで、もう何回目のXmasだっただろう。
今年のXmasの翌日には20年続いたSMAP×SMAPの放送もついに終幕。
ほんとにいろいろあった一年ですね。


しかし、今回のスマップの解散で、驚いたのはSMAP×SMAPの放送開始よりも、僕と妻との出会いのほうが先だったということ。 もうそんなに長く僕と妻は知っている時間を多く共有している。


確か、僕と妻が知り合った当時は、スマップは、森口博子と「夢がMORI MORI 」という番組をやってたかな。と思うと、ほんとに古い話で、話しだすといろいろと長くなるからやめときます。。。



さて、そんなこんなで、僕としては、初めてのクスリマスをこのあいだ迎えました。
副作用というと、いまだに、飲んだら嘔気。強い場合はやはり少し苦味が戻ります。
 
まだまだ辛い日々です。


オヤジギャグはさておき、Xmasとなると 考えただけでもびっくりするくらい色んな想い出がその年ごとにある。


サンタは、 なんで白いお髭がはえているのか?


あちこちプレゼント持って行くけど、いったい、サンタは何人いるのか?


白い袋の中は、ドラえもんのポケットみたいなんだろうか?


今年は、自分の家ととなりの幼馴染の家とどちらを先にまわるのか?


はじめて枕元に靴下をおいてみたけど、こんな小さなものに何が入るというの?


何で今年は夕飯時に玄関から来たのか?


何で今年のサンタは、母親にプレゼントを預けていったのか?


何で今年は母親がごめんねと謝るのか。。。



そう、僕は、小学5年のXmasに母親に謝られるまで、サンタの存在を信じていた。


ある意味、実に幸せ者である。


まわりの適度な協力と僕の純粋さ、いや、アホさがそこには必要だった。


しかし、玄関先にサンタがきた小学低学年のXmasから、母親がごめんねと、謝ってきた小学高学年の時までは、ほんとに色々激動の日々だった。


玄関からサンタが来たXmas、玄関のドアがバタンと音をたて、姉が、サンタかもよ。と言って囃した。


玄関に駆け寄ると、プレゼントが置いてあったが、サンタの姿はすでに見えなかった。
それでも玄関を出てサンタの後を追ったが、もうサンタの気配はなかった。


ソリに乗っと飛んでいくサンタの背中はみれるかな、と思っていた僕はほんとにかわいい。


そして僕は、それきり、父と離れ離れになった。


その年のサンタからのプレゼントは、ホラー屋敷のある大きなボードゲームだった。


いくら欲しかったとはいえ、Xmasにお化け屋敷はないだろう。




母が父と離婚したのは、その後すぐである。



実業家であった父とは、小さい時の想い出があまりない。
唯一あるのは、釣り好きな父に、何度か海釣りに連れて行ってもらったこと。


幼稚園の時に50cmくらいの真鯖を産まれて初めての釣りで釣って、めちゃくちゃ褒めてくれた。


あとは、イカ釣りやハゼ釣りとか行ったかな。でも全部で、4、5回の想い出。


途中にくる チャルメラ 車の屋台で、竿を海に仕掛けたまま、ラーメンを並んで食べるときが、雰囲気があって好きだった。


子どもの時は父が家にいた記憶があまりない。
父は仕事が忙しいのだと当時は信じていたが、実は、派手な女好きだったために、家庭はそっちのけだった。


世の中もまだまだ高度成長が続いていて調子も良い時代。


家は鉄筋3階建てのバカでかい家で、1階はガレージ。
左から父の愛車のBMWと家庭用のクラウン、真ん中には、母が愛してやまなかった庶民派のカローラ、そして、右には、車輪にのったヨットが1隻。 さらに、少し離れたヨットハーバーには、クルーザーと大型ヨットが別に1隻ずつあった。


2階は来客用のフロアで、水牛の角、シロクマやクジャクの剥製、虎皮のカーペットなど、今ではワシントン条約に抵触するであろう、極めて趣味の【良い】応接間があり、たまに姉のピアノ練習場所になるグランドピアノがおまけに置かれていた。 あとは客用の寝室にバスルームと化粧室。


3階がいわゆる住居空間で本間12畳の広さのお部屋が標準の6LDK。 家族全員に部屋があり、テレビ、ビデオ、エアコンが各部屋に完備されていた。


そして屋上には、僕用のゴーカート乗り場に、父用のゴルフの打ちっぱなしコーナーがあった。


近所には開業医や有名企業のお偉いさんもたくさんいたが、中でも、かなり目立つ家だったのは間違いない。


まわりからみると実に幸せそうに見えたであろう僕らの家族。
確かに幸せだったのかもしれない。


でも母が想像以上に、父に悩まされていたんだなと思うと、心が痛む。
いったい、いつから偽装の夫婦、或いは、偽装の家族だったのか。


理由は違っても、これは、僕自身の今の状況もそうかわりないと思うと、本当に反省であるが、血は争えない自分にしてしまったことがやはり悔やまれる。


父はその後すぐ、女とともに消え、会社もそののちに消えた。


父と母が離婚した後は、僕は母親とともに、祖母が住んでいた、小さな1DKの公営住宅に流れ込んだ。
歳が少しはなれた姉は父のもとにいったが、それでも、1DKの1部屋に、所狭しと、川の字で、6人で寝たこともある。


川×2本だから、家具など考えるとは一人当たりの就寝スペースは1畳もない。
時には、足を箪笥に斜めにかけて寝ることもあった。



バカでかい家からの転落は、本当に、見事なものだった。



その年のXmas 。 
母は、サンタから預かったよ、といって、翌朝、プレゼントをくれた。
僕が欲しかったポケットサイズのゲーム。
めっちゃ、うれしかった。


しかし、サンタが母に預けていったくだりは全く疑わなかったから、本当におめでたい性格であると思う。



翌年のXmas 。 
母は、ごめんねと、泣きながら、僕に言う。


クリスマスにプレゼントを買うお金の余裕がもはやなかったのだ。


それどころか、よくドラマではみるが、昼夜問わず、狭い1DKの家に、借金の取り立て屋がきては、わめき倒して、玄関のドアを蹴り倒していく。


そんな恐ろしい毎日を過ごした。




父の会社が倒産したとき、母は責任感が強すぎたこと、そして、銀行員の口車にのせられて、すべての責任を負った。


当時の金額で5億強の負債である。


会社の資産、築き上げられた家族ですんできたお屋敷、車、宝石、あらゆる資産を吐き出して、残った借金は、およそ1億3千万。


それでもすごいのは、母は、生保の外務員などをしながら寝ずの毎日を過ごし、8年という歳月を経てそれを完済したことだ。


何度か母の生保の会社にいったことがあるが、外務員の名前が壁にずらっと並んであって、当時は、契約がとれると、その名前の上に折り紙とティッシュでつくられた「花」が成績の量に従って貼られていた。


母の「花」は、壁から天井、反対の壁を下って、会社の中を常に2週から3週していたのだけはよく覚えている。


僕が社会人になった時、それがどんなにすごいことなのか、よくよく驚愕した。



ただ、母が自殺しようと考えていた時があったこと。
それも、こどもながらに知っていた。
それでも僕らのために、とにかく、前向きに頑張ってくれた。



母には本当に頭があがらない。



なのに、



ごめんね。お母さん。



そんな母に、こんなバカな息子の病気のことを話すのはキツイ。


でも、副作用がおちついて、CD4やウィルス量が安定してきたら、ちゃんと母には話そうと思う。


もしかしたら、母は、病気のことは聞きたくないことかもしれない。


でも、僕が母だったら、やっぱり子どものことは何より心配で、「なんでちゃんと話さないの」って思う。


だから、隠していたら、やっぱり、母に、怒られると思うし、それ以上にというか、僕の想像以上に、母に悲しい思いをさせるかもしれない。



もはや、そう考えるのも正しいのかどうかさえわからないが、ちゃんと話そうと思う。




あー、今も、ちよっと、嘔気があるのがつらい。



そんな僕の初めての薬マス。

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